The Sword of Truth
11
気配がした。
薄闇の中、眠っていた聖獣は、その巨大な頭をぐぃともたげた。
岩盤を通して、彼は複数の生き物の動きを感じた。さすがにぼんやりとしたイメージしかとらえられないものの、その動きが“最高級の獲物”を与えられる時特有のものであること
を、ガゥーズは学習していた。
“ガゥーズの刑”は極刑であるため、平常時はそうふんだんに行なわれるものではない。何年にもわたって処刑が行なわれない場合、聖獣の闘争本能をさびつかせないよう、つね
に攻撃力をベストにしておくよう、大型獣が人間のかわりに与えられている。
しかし、なんといっても、一番の好物は―むろん、人間だった。恐れおののき泣き叫ぶ者、時に死に物狂いで向かってくる者・・・そういった人間の絶望的な感情のほとばしりが、本
来、精神感応生物であったガゥーズにとっては最高のソースであるのだ。
聖獣は、頭部からたてがみのように取り巻いて伸びている緑色の触手をうごめかした。人間の胴体より太い前足で岩肌をひっかくと、金剛石並みの硬度のある爪で、深い溝ができ
る。
事の時間。
最上等の食事の時間。
今日の食事は、今までで最高のものとなるかもしれない―獲物は単数ではない。この前まで居たヘンな一匹ではない。もう一匹・・・美味そうな気配のする、新しいヤツ。
ガゥーズは、のどを鳴らした。ぎっしりと並んだするどい牙が光った。
「審判は始まったのか。」
「すでにナユ・シムルグは、丘の小洞に入ったようです。もうそろそろ・・・。」
「誰が行ってる?」
「グリュミ殿です。商人の格好に変装して行きました。僧侶姿では、ドゥグマ・ゲンに見つかると不審がられますから。」
「ガゥーズの刑―あれが最後に行なわれたのは、もう七年前のことになりますね。パディ王の治世では一回もなかったから。」
「イラム殿の伯父、バータ王は、猜疑心の強い人間で、自分の王位を皆が狙っているという不安に絶えず襲われていた。レパ王子はおとなしい方だったから、兄王から冷遇されても
逆らわず、宮廷をしりぞいてひっそりと暮らした。
だが、王の姉エルミィ王女は勝気な方、兄の疑いをバカバカしいと取り合わなかった。そして・・・。」
「あの、一連の暗殺事件が起こったわけですね。」
「宮廷内のこと、あの中の欲望や陰謀の詳細は―今ではもうわからぬ。
だが、王女の夫ウェルナー伯爵が反逆罪で告発され、その命で動いたという何人もの家臣がガゥーズの刑の犠牲になった。見せしめにな。王が仕組んだのだ。
気弱なウェルナー伯は、自身の処刑こそまぬがれたものの、衝撃でふぬけ同然になってしまった。エルミィ王女の怒りはすさまじいものだった。事件直後、王女の一人息子が池で
溺れて変死したから、無理もない。」
「王女が兄王を毒殺したというのは本当ですか?」
「姉を返り討ちにしようと、てぐすねひいて待っていた兄相手に、どうやって成功したのか知れぬが・・・。」
「エルミィ王女は気丈な方だったが、夫が廃人となり一人息子が死んで、絶望したのだろう。兄王殺しを素直に認め、その場で同じ毒杯をあおって命を絶った。二人とも表向きは病死
あつかいにされているが。」
「ドゥグマ・ゲンが、バータ王の猜疑心をあおって、王族同士のつぶし合いを激化させたと聞きます。」
「・・・・。」
「イラムは我々、いやアンティオの民の中でも、もっともあの聖獣に詳しい人間だ。子供の頃、ガゥーズの幼獣に接することがあって、興味を持ったらしい。あの獣には、我々と同じく
精神感応力がある。聖獣と呼ばれるのもそのためだ。」
「外見とその凶暴性から、処刑に使われるようになったのですね。」
「初めはそうじゃなかったそうだ。初めは・・・。」
「なんだ?」
「審判が―始まりました!!」
「む・・・間に合わなかったのか、それとも??」
ナユ・シムルグは、市民が大勢つめかけている大洞の裏面にあたる側から丘を登った。大勢の民衆が途中までついてきたが、丘の入り口で追い払われた。丘は台形になってい
て、頂上はかなり広い面積がある。ガゥーズの洞に通じる小洞―フラゥンが今閉じ込められている―へは、この丘の上からしか入れない。そして丘の頂には、周囲から丸見えの見
通しのよい崖の側面に刻みつけられた階段、ここを登るしかないのだった。
人々はナユが崖を登っていく様をじっと見つめ、彼らの視界から姿を消すやいなや、一斉に洞のある反対側に大急ぎで移動していった。
レパ王子の息子は、もうじき会えるフラゥンのこと、ガゥーズとの戦いのことで頭がいっぱいだったが、自分を案内する死者のような顔をした囚人には、さすがに少し動揺した。
丘の頂上は平らにならされ、地上からは見えないようになっているが、家畜(主としてガゥーズの生餌用だ)が飼われ作物が栽培され、一見こじんまりとした農場のような雰囲気す
らあった。
残りの一生をこの丘の上で暮らすこと―ガゥーズの世話と、その刑の案内人になるのを条件に(むろん通常の)死刑を免ぜられた凶悪犯罪者は、皆そろって同じ顔をしていた。一
人はまだ青年といえる肉体年齢のはずだが、目つきと表情は、死にかけた老人のように空ろだった。
フラゥンが小洞にいる間に、なんとか丘に登って彼女を取り戻そうと、瞑想園にすら忍び込んだすばしこいナユが考えないはずがない。
だがそれは誰でも考えつくことであり、そして生やさしいことではなかった。
用心深いドゥグマ・ゲンは、長老院の結審後、フラゥンを急いで王宮内の牢から小洞に移送した。牢として、ここはどの牢獄より(大臣にとって)安全だったからだ。崖の登り口は、丘
を斜めによぎる形で岩肌に刻まれた階段が一つあるだけ。階段の入り口は高い石塀で囲まれ、監視小屋もある。ふだんは丘の上の終身刑の囚人が逃亡するのを監視し、生活物
資の受け渡しをするだけだが、「特別な囚人」が小洞にいる間は、監視人、警備員も増やされた。
大臣は警備の兵をたっぷり配置し、ナユ・シムルグが帰国して宮廷に怒鳴り込んで来たその日のうちにはもう、自分の直属の衛兵を大増員して警備を何倍にも強化した。大臣の方
がはるかにその点は上手だった。ナユが奪還計画を練り始めた時はもう、囚人というより王並みの警備陣が完備していた。
なんとか単身、崖の周囲の岩肌に取り付くことができても、見通しのよい崖をよじ登っている姿は誰にでも丸見えで、すぐ弓矢や投げ槍の餌食になるだろう。
さらに、丘の上の囚人たちは“特別囚人”が万が一逃亡するようなことがあれば、代償として彼ら全員が“ガゥーズの刑”に処せられることになっているので、彼らを抱きこむことは
不可能である。生きたいがために、隔絶された陸の孤島での終身刑を選んだ人間達なのだから。
もし―ありえないこととはいえ、小洞の囚人を救い出そうとして誰かが進入し、防げそうもないと判断したら即、特別囚人を小洞からガゥーズの洞へ送り込んで刑を実行してもよい―
万が一の権限が、丘の上の住人には与えられていた。
気短のナユが恋人の奪還をあきらめ、絶望的な正攻法を取らざるをえなくなったのも、この実態を知ってしまったからだった。剣士宮で同志をつのり、大勢で包囲網を突破すること
ができても、崖の階段を駆け上がっても、もし、おびえた囚人たちが処刑を即行してしまったら・・・間に合わなかったら・・・?
結局ナユは、貴重な初めの何日かを費やして考え抜いた救出案を断念せざるをえなかった。
登って来たのは罪人ではなく、しかも王族だ。
囚人たちは皆一様に生気がなかったが、そんな彼らの方も動揺しているのがわかった。もう何年も“ガゥーズの刑”はなく、狭いながらも彼らなりの小さな平和を送ってきたのだ。世
間と隔絶されていたが、定期の生活物資の受け渡し時に伝達があり、今目の前に立って、彼らを澄んだ目で見ている少年がどういう素性のものかは知らされていた。こっけいなくら
い彼らは卑屈で、かって凶悪犯罪者だったとは思えない。そういう点では、確かに更生の効果はあるようだった。
「ここが・・・その、入り口でございます。ハイ。」
一番年かさの男が、傾斜した井戸の口のような穴を指差して言った。
「ここが小洞に通じているのか。」
「ハイ。」
穴の奥は真っ暗で何も見えず、冗談でも入ってみようかという気にはならないような薄気味悪いものだった。だが、この穴の奥にフラゥンが、と想いつのるナユは動じることもない。
普通は処刑者は拘束されて上まで護送され(狭い崖の階段の途中で飛び降りられたり暴れて落ちることになっては、この刑の意味がなくなってしまう!)この穴に落とす直前、縄を
解かれるのである。
「審判が始まるのは、どうやってわかるんだ?もし小洞にずっととどまっていようとしたら?」
老人の目をした壮年の男がしわがれた声で言った。
「合図を下から受けたら―我々が操作して、小洞からガゥーズの洞に通じる通路を開けます。その通路から出て行ってください。」
「出て行かなかったら?」
「この丘の中には、アンティオ建国以前に栄えたとされる、古代の国のからくり仕掛けが残っています。・・・私も前任者の受け売り程度しか存じておりませんが―いずれあなた様が
私より詳しく知ることになるでしょう―石の床がせりあがって、天井とあわさるそうです。
刑がおいやなら、残ってもかまいませんよ。」
そう言って男はぞっとするような笑みをうかべた。半ば狂った者の目つき。
「先日連れて来られた娘は、ずいぶん重要な人物だったようで。王宮直属の兵士一団に連れてこられましたが・・・あの娘もずいぶん泣きはらしてはいましたが、暴れる様子もなく、
おとなしくここから素直に入りましたよ。」
「―もう、あまり時間がないようです。・・・早くお会いした方がいいのでは?」
どうやら大臣筋の意地の悪いメッセージも一緒に伝えられたとみえる。
狂った囚人より、この暗黒の口の中のほうがずっとマシだ、とナユは、腰の剣二振りをおさえ、飛び込むようにその場から消えた。