片隅
―2―
おそるおそるシートを開いてみる。
驚いたことにガラスはヒビが入っただけで、そのかわり木枠がゆがんで外れかけていた。
よほど丈夫なガラスらしい。物置から一緒に持ち出した軍手をはめ、用心して木枠を外し、香木を台座ごと取り出す。
つい、鼻をくっつけて、木切れの匂いをかいでしまった。なんだか少し膠臭いような、妙な
香りがするが、そんなにいい香りとは思えなかった。じいちゃんは、これが何の木なのかは
教えてくれなかったしな。
木切れを台座に固定していた糸をハサミで切った。
うーん、これが例の幻のナントカ香であればなあ。ケースに収まっていれば格好つくんだけど、
このままじゃ・・・。専門の店で鑑定してもらわないと、どうしようもない。
その前に、例の儀式とやらを、ひとつやってみるとするか。だまされたと思って。
おやじのこともある・・・うまくゆけば、もうけものじゃないか。
昨日、同じ大学にはいった同学年の知らないヤツが、おれの彼女にしきりに接近しようと
していることを、確かな筋から知った。問題は彼女もまんざらでないらしいことだ!
やはり、離れてなかなか会えないと、女ってヤツはすぐよそ見をするらしい。
おれは容姿には自信がある。問題は遊ぶ金が全くないってことだ。都会から離れた田舎町では、男が顔で稼ぐ職場すらない。(それに狭い町では、そんなバイトしたら即効でばれる。不自由きわまりないぜ!)
彼女の居る都会に飛んでゆくにしても、何万円ってかかるのだ。
おれはナイフで香木を少し削ろうとした。ところが意外と固い。あやうく自分の手の方を
削りそうになった。
「くそっ。」
なんとかして木っ端を少々削り落とした。
正式なやり方はあるのは調べて知ってるが、道具を集めるにも金がかかる。
それにおれの知っているのは、あの日じいちゃんから聞き出したことだけだ。
ま、合ってればいいだろ。遊び遊び。
クラフトショップで買ってきた素焼きの小さな皿の上にのせ、使い捨てライターの火を近づけた。
木っ端にはなかなか火が移らない。先になにか匂い出した。木切れに鼻を近づけた時とはちと違う・・・何だろう、このニオイは。
いつの間にか、木っ端はブスブスとお灸のように変色し始めてる。とと、急いで例の祝詞と願い事を言わないと。
折りたたんだ紙切れをあわてて開く。短いが意味不明の言葉。これをじいちゃんから聞き出すのは大変だったのだ。それはカナで書かれたパスワードに似ていた。
おれは急いでそいつを棒読みした。それから鼻いっぱいに香煙を吸い込みしっかりむせ、
くらくらしながら、『願い事』を叫んだ。
「―一生、金に困らないで暮らせるようにしてくれ!」
思わず本音。
あと考えたら、あの香にはなんか麻薬っぽい成分が少しばかり入ってたんじゃないかな。毒キノコにも幻覚を起こさせる成分がはいってるのが少なからずあるって言うし。ど田舎で健全きわまりない生活を送ってるおれには縁のないもんだけどね。
ただ、それだけだった。
特になにも起こらなかったし、おれは苦笑いしながら木切れだけを別に取っとき、木枠やガラスはあとでこっそり捨てるつもりでビニールシートごとくるんで物置の奥につっこんでおいた。
二日後、先週なけなしの小銭で買っていたくじが、10万の当りを取っていることが新聞でわかった。
冗談半分でやったことを思い出し、おれは少し神妙になった。10万じゃ一生遊んで暮らせる額にはほど遠いが、それでも金欠の身にはなんともありがたい臨時収入だ。参考書を探すという名目で電車に乗って、香木のことが少しはわかりそうな専門店に行き、ついでに当たりくじの方も換金してきた。
店屋の主人はいきさつを聞いて激しい関心をしめしたものの、香木の種類を特定することはできなかった。独特の香りはするものの、一般的に香木として売り買いされる種類のものではないだろうというのが主人の結論だった。おれは手元に置いてもっと調べてみたいという相手の申し出を断って、とりあえず帰った。店の中で正式な作法にのっとって焚かれた香は、でもおれがあの時嗅いだにおいとは少し違う気がした・・・。
家に帰るとお袋が出かける支度をしていた。姉ちゃんが体調不良を理由になにかデパートでの贈答品の買い物を頼んだらしい。
よそ行きの正装に着替えたお袋は、厚化粧の同年代の女優に比べてひけを取らない・・・て、本人もそう思ってるんだろな。その分ちょっとキツイとこもあるけどね。
「いい参考書は見つかった?」
「まあね。」
10万円という参考書が、今おれのバックには入っている。
もし願いがかなったら、“お社”を奉納しないといかないのだが、10万ではまだまだ大願成就にはほど遠いと思いながら、おれは自分の部屋に戻った。宝くじをまた買ってみたらどうだろうか?
あいにく今大型の宝くじはセール中ではないが、捜せばいくらでもあるだろう。そんあことばかり頭に浮かんで、勉強はさっぱりはかどらなかった。
思わぬ臨時収入はあったものの、その後しばらく模試だの勉強のイベントが続き、おれの頭から香木のことが半ば消えた頃、姉ちゃんからの電話があった。
お袋が浮気をしてるという。
「そうなのよ、二人で車に乗っているのを見た人がいるんですって。うわさになってるらしいわ!とんでもない話よ!!」
一方的に憤然としゃべりまくるので、初めはなんだかわからなかった。姉ちゃんは、そのことに気がつかないおれを無能よわばりしはじめ、親父がかわいそうだの恥さらしだの、こっちがコメントをはざむ余裕が寸分もないくらいに思いっきり連射してから、電話を切った。
・・・・。本当だろうか?姉ちゃんは美人の母親と子供の頃から比較されてきたせいか、お袋に対して妙な敵愾心を持っている。(そのくせ、利用だけは人一倍する。)うわさだけでかっときたんじゃないのか?美人(むろん年はくってるけどさ)は目立つから、ちょっと別の男と話しただけで、変に勘ぐられるというのはあるだろう。
にしても、受験生のおれにそんな動揺兼聞いたってどしようもないことをまくしたてる、姉ちゃんも姉ちゃんだよなあ。たく。
おれは半信半疑だったが、数日後の試験明け、気晴らしに出かけた街のビルからお袋と見知らぬ男が出てくるのを見て・・・というよりもろに鉢合わせしてしまった。
「・・・!!」
お袋は当然あわてた。なんといいわけしようかといった顔で、相手とおれを交互に見、固まっている。
相手の男は初めお袋の様子に不思議そうな顔をした。だが、おれとお袋はよく似ていると小さい頃から言われている。状況を察したらしい。
「・・・息子さんか、ね?」
やや当惑しているが、お袋のうろたえぶりに比べると、敵ながら?あっぱれという感じだった。堂々とあいさつを始めた。
確かに名乗るだけの価値はある。男はこの10年ぐらいで急成長したベンチャー企業(もうベンチャーという肩書きが不要なくらいさ。おれでも名前知ってるくらいだから)の社長だった。
よく見るとそこはその企業の支店ビルの前で、運転手付きの超高級外車が待機していた。勧められるままに、おれもその車に乗り込んだ。・・・断るには惜しいような雰囲気だったんでね。
「お母さんとは、昔からの知人なんだ。」
男は車の中で、どんどんしゃべり始めた。お袋はまたすましこんだ顔つきになった。どうやら二人、目撃犯のおれをなんとか懐柔することに決めたらしい。
お袋は、結婚前は地元中堅企業のTV―CMに起用されるくらいの、結構評判の美人だったそうだ。結婚後も二人目のおれが生まれるまでは共働きしていて、この男はその会社に一時派遣社員として勤めていたのだ。
「お母さんはほんと、美しい人でね。」
「まあ。」
おいおい。息子の前で浮気相手とのろけんなよ。
その後まもなくお袋は会社を辞め、男は事業を起こすために都会に出た。
支社の新家屋が完成し、オープンに社長が御幸してこの街にやってきた時、お袋がたまたま姉貴のお使いで街に出ていた。そして社長と出くわしたらしい。なるほど。(でも、ずいぶんババアになってただろうに、よく見てわかったな。)
「食事でも、どうかね。」
雰囲気に飲まれたまま、郊外のレストランの別室でコース料理を食べるはめになった。二人は「久しぶりにあった知人」を装うためクサい芝居を続けている。お袋の顔を知ってる者がどこかにいても、息子のおれが同席していれば、まさか浮気相手とは思わないというわけだ。いい根性しているぜ。
男はごまかそうというのか、しきりに自分の会社のことをしゃべる。
「・・・今の会社にはとにかく若い力が必要なんだ。君みたいな優秀な人がね。」
「浪人中ですよ。」
「学校の詰め込み教育の基準だけで人間は評価できん。もし君がその気なら・・・」
そこにはあながち、勢いからの口からでまかせではない響きがあった。
その日はさすがにお袋をあとでどーの、というわけにもいかないわけで、至極ていねいにお袋と一緒に家の近くまで送り届けられた。お袋は(女って怖いね。おれの彼女も・・・油断できないぞ)さりげなく口止め料らしきコヅカイをくれた。
「先のことになるだろうけど、あなたの就職の世話をしてあげてもいいとおっしゃってるの。だから失礼のないようにね。」
おれはさわりのない笑みを浮かべてやった。お袋は共犯者の笑みを浮かべた。・・・親父も気の毒に。
ベッドにころがって、おれは思った。
これまで浮いたうわさひとつなかったお袋の突然の浮気・・・。
そう。あの木切れだ。
何百億の金を動かしている優良企業の社長。
おれがあの時、言えた皮肉のひとつも言わずにおとなしくしていたのは、香木にかけた願掛けのことを考えていたからだ。
偶然とはもう思えない。すぐに当たった手持ちのくじ。そして大金持ちの男とお袋の浮気。
あのご神木は、手品みたいに無から有を生み出すものではないらしい。あくまで本人の身の回り、身近なものによって、その願いを結実させるのだ。
・・・親父の願いはお袋との結婚だった。じいちゃんが言ったのだ。恋わずらいで悩んでいる息子にあの願掛けを教えて首尾よくいったものの、結婚後、なにかのはずみでそのことがばれてしまい、それからお袋はじいちゃんに対していい感情を持たなくなったと言ってた。
一生金に困らない・・・。
もし、お袋が親父と離婚し、あの男と再婚したら。そしてまだ未成年ではあるおれが、お袋についていったとしたら?
あの男は義理の父になる。資産が何十億単位である男が。
おれの推測は正しいようだった。お袋はさらにひんぱんにあの男と会うようになり、親父との離婚、そしてあの男との再婚の決意を固めたようだ。もちろんそれは親父の知るところとなり、しょぼくれた親父が烈火のごとく怒り狂った。
つめよる親父とお袋は大喧嘩、とんだ修羅場になった。
「許さんぞ、この・・・」
「あなたこそ、お義父さんにもらった気持ち悪いご神木とやらの呪力で、私をむりやり自分と結婚させたじゃないのっ!」
「そんなことはない、おまえが自分で・・・」
「私はあなたと結婚するつもりは全然なかったのよっ、それをなによ・・・!」
以下、あまりにしょうもない会話なので割愛するが、数日後、お袋は家を飛び出してしまった。むろんあの男の元に行ったのだ。
おれのほうといえば、その後も二人と“会食”したりしていた。社長氏は、すっかりお袋と結婚するつもりでいるらしく、おれに愛想をふりまき、勘弁してくれよってくらいの身内扱いで接してきた。
彼は一度結婚はしたものの子供もないまま死に別れ、その後は会社を子供代わりに育て上げてきたらしい。そこに昔あこがれていた女性と、その女性の若い頃によく似た美形の息子が現れたのだ。当然・・・。
お袋が再婚したら、おれは最有力候補の後継ぎになる。(もちろんおれがお袋についていったらの話だけど)
一生金に困らない生活が保証されるわけだ。
望み通りとはいえ、母親の浮気と離婚と再婚という、息子としては決して穏やかでない神木のシナリオにやや抵抗はあった。だが、受験勉強と金欠にほんと嫌気がさしていたおれには、うまくいけばその両方から開放されそうというのは、あまりに魅力的だった。それにおれは、ネチネチしてひがみっぽい親父がもともとあんまり好きではなかったのだ。
もしこのまま進めば、“奉納”の方も早くしないといけないな、と思っていたのだが、親父は頑として離婚に応じる気配はなかった。
それどころか、おれが相手の男と親密になっているのをかぎつけ、怒りの矛先をおれに向けてくるようになった。
小心者の男のヒステリーほど嫌なものはない。お袋の居場所を知っているのだろう、教えろと一日中わめきちらし、勉強どころかTVさえおちおち見てられない。
おれを浮気相手かお袋に見立ててなぐろうとしたり、手に負えなくなる一方。親父に対して持っていた少しの憐憫もとうにすっとんでしまった。この男、大騒ぎはしているが、当事者二人の元に面と向かって殴りこむ勇気はないのだ。毎日やつあたりされて、おれもこうなったら社長氏のところに行ってしまおうかと思い始めた。
その時、ふと思いついた。
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