夕暮れの影


「お姉ちゃん」
弟の昂太がスカートのすそをつかんで、いつものように引っ張る。
「なあに、昂太」
「もうおばあちゃんの家に戻ろうよ」
「まだダメ。二人ともまだケンカしてるから」
私はおばあちゃんの家の方を見た。だいぶ離れているのに、二人の怒鳴り声が聞こえてきそうな気がする。
このところおばあちゃんは体の具合が悪かった。三日続けてお医者さんが往診に来て、今日からとうとう入院することになったみたい。
おばあちゃんを連れていった人達に、家で待ってなさいと言われたけど、代わりにやって来た両親がいつものようにケンカを始めて、うるさくてたまらない。私も昂太もこっそり外に逃げ出してしまった。
「でももう少しあっちに行こうね。ここは蚊が多いもん」
河川横の公園のベンチにすわっていたのだけど、夕方近くなってきたので蚊が寄って来た。私の方が大きくて汗をかいているせいか、蚊は私の周りばっかり飛び回る。不公平だ。
川土手は夕風が通るせいかまだ蚊はいなかった。川原に降りる石組みの階段に腰をかけ、足をぶらぶらさせた。
「アイスクリーム食べたい」
「おばあちゃんの財布持って出てくればよかったね。お姉ちゃん、今帰るのは嫌だよ」
昂太も同じ気分なのか、黙った。
「はやくおばあちゃんが帰るといいね」
両親は私が思い出せる限りの昔っから、ケンカばかりしている。

私はお父さんの子供じゃないらしい。
昂太がまだいない頃、何度も言ってた。
「やつの子供だろう!どうなんだ!!」
お父さんが誰かの名前を言ってわめきちらしていた。それが私の本当のお父さんらしい。
お母さんは否定してたけど、
「そうよ、あんたみたいな男の子供じゃなくてよかったわ!」
そう怒鳴ったこともあった。その時のケンカは怖いくらいひどかった。
お母さんの妹、栄子おばさんに一度だけそのことを聞いてみたことがある。 栄子おばさんは真っ青な顔になって違う違うと言って、あとで二人に何か言ったらしい。
その日から二人は口にしなくなったから。でもケンカはやめなかった。
近所のおばさん達はたいてい私がお父さんそっくりだと言って、そういう時は両親は笑っている。昂太はお母さん似だそうだ。よくわからない。
でも確かに、昂太と私はあんまり似ていないと思う。昂太の方がずっとかわいいから。
私は小さい頃から近所のおばあちゃんの家にしょっちゅう行ってて、半分おばあちゃんの子供みたいだった。 でも昂太は歩けるようになっても、お父さんがあまり行かせたがらなかった。
おばあちゃんがボケてきてるから、よくない影響があるって言ってた。
なら保奈美はどうなの?ってお母さんが返して、またケンカの種になっていた。
お父さんによると、私はもう大きいし、慣れてるから大丈夫なんだそうだ。
おばあちゃんの“将来”のことについても何か言い争っていたっけ。
「帰ろうよ」
たいくつになったのか、弟の手がまたスカートにふれた。
「今帰ったら、お父さんとお母さん、昂太だけ家に連れて帰ってしまうかも。いい?」

慣れているけど、あのケンカに巻き込まれたくはない。
止めようとしてお父さんに突き飛ばされ、お母さんがお父さんに突撃してもっとケンカがひどくなったことがある。
痛いし怖かったので、それからはなるべく親のケンカにはかかわらないように、隅でおとなしく終わるのを待っているようにしてたけど、それがお父さんには気にいらなかったみたいだ。
弟はまだ小さい。
二人とも私の時よりは昂太にやさしいみたいだけど、私より泣き虫で我慢のない弟は、男の子らしく二人のケンカに割ってはいることもある。
少し前、昂太は病院に連れて行かれた。
夏休みで、私はおばあちゃんの家に泊まっていた。誰も―昂太自身も―はっきりと言わないけど、どうやら両親のケンカを止めようとしてどこかぶつけたらしい。私も覚えあるけど、その時は絆創膏だけだった。
数日周りがざわついたあと、昂太もおばあちゃんの家で暮らすようになった。
だけど今日のように、おばあちゃんがいなくなると二人はやってきて、そしてケンカをし始める。さっきも昂太を連れていこうとして、弟が嫌だと言ったから、お前の教育の仕方が悪いからとかお父さんが言い出して、いつもの罵りあいになった。
弟は両親をとても怖がるようになった。私もお父さんに突き飛ばされた時はとてもショックだったから、あまりそのことには触れないようにしている。

「保奈美ちゃん!」
後ろから急に声をかけられびっくりした。
「おばさん!?」
立ち上がって振り向くと、栄子おばさんが少し離れたところで手を振っている。
栄子おばさんは遠くの町に住んでいる。お母さんとは仲いいけど、お父さんはおばさんのことをすごくバカにしていて、おばさんも家には来ない。一度だけお母さんと一緒におばさんのマンションに遊びに行ったことがある。広くてきれいだけど、一部屋しかない家だった。
「こんなところにいたの。ずいぶん探したのよ。警察に連絡しようかと思ったくらい。
さあ、帰りましょう」
「帰るって、どこへ?」
おばさんの丸い顔がゆがんだ。おばさんもあまりお母さんに似てないと思う。
「・・・そうか、まだよくわかってないのいよね」
おばさんは私の手を取った。
「かあ・・・おばあちゃんはお年寄り用の施設に入ることになったの。このところずっと具合悪かったのでしょ。保奈美ちゃんもずいぶんがんばって看病してくれていたのよね」
「うん」
「病院で検査したら、あちこち弱っているし、もう一人暮らしは無理だって。設備の整った施設じゃないと危険なんですって」
「おばあちゃん、もう帰ってこないの?」
「・・・・・・」
おばさんが私の手を握り返した。
「保奈美ちゃん、一緒におばさんの家に帰りましょう」
「・・・昂太も一緒よね?」
私は聞き返した。さっきからおばさんは私の方ばかり見ている。両親に無視されるのは慣れているけど、自分ばっかり話題にされるのも嫌なことがわかった。
おばさんの指から力が抜けた。
「保奈美ちゃん、昂太って・・・」
おばさんの顔色が変わった。
「昂太ちゃんは―」
息を呑む音が聞こえる。
「昂太ちゃんは―
死んじゃったのよ、保奈美ちゃん。どうしたの」

急に何を言い出すんだろう。昂太はここにいるのに。私に寄り添って、私のスカートのすそをつかんで立っているのに。
「昂太はここにいるよ。おばさん、どうしちゃったの」
私は弟を抱きしめた。おばさんは私を見、まるで友達の家でこっそり読んだホラーマンガの主人公のような顔になった。
「保奈美ちゃん、あなた」
おばさんの口は開きっぱなしになっている。
ようやくあごが動くようになったみたい。話し始めたけど、なんだか声が変だ。
「子供にとってショックが大きすぎるからって、誰もちゃんと話さなかったのね。保奈美ちゃんも聞こうとはしなかったみたいだし。保護司さんにも、当時の記憶がショックのせいかあいまいになっているようだが、当分そのままにしておいたほうがいいと言われたけど・・・まさか」
私と、弟の方を交互に見る。
「保奈美ちゃんのお父さんとお母さんがケンカした時、お母さんが投げた置時計が、止めようと二人の間に割り込んだ昂太ちゃんの額に当たって、倒れたの」
おばさんの目が私に注がれる。
「お母さんは医者にすぐ連れて行こうとしたけど、お父さんがとめてしまったのよ。夫婦の恥をさらすことになる、子供の虐待を疑われたら俺の社会的立場が、お前が投げたんだからお前もただじゃすまないぞって。姉さんがお葬式の時そう言ってた。
あの時すぐ病院に連れていって検査してもらっていたら・・・」
口の中のネバネバしたものを引きはがしながらしゃべっているみたいに、言いにくそうにおばさんは言った。
「脳に出血が起きていたの。時計のせいじゃなく、倒れた時打った後頭部に。昏睡のような症状が出た時はもう手遅れだったの」
「うそ!!」
昂太が死んでるわけないじゃない。
ここにいるのに。さっきからずっと話しているのに。
あの夜、おばあちゃんの家から病院に連れていかれた。でも弟は、私が来たら病室のベッドから飛び降りて駆け寄って、いつもようにしがみついてきた。
「お姉ちゃん」
それから弟はそばを離れない。
昂太の手をつかむ。昂太も握り返す。
「もうお父さんとお母さんのとこには帰りたくないの。二人とも、今日もおばあちゃんの家に来て、またケンカしてる。もう嫌!
昂太と一緒にいたいの。ダメならおばさんのとこにはいかない。おばあちゃんのとこに帰れないのなら、二人でどこかに行く!」
おばさんはとても長いこと黙っていた。顔がだんだんいつもの栄子おばさんの顔に戻ってくる。
「わかったわ、保奈美ちゃん」
声は震えていた。でも静かだった。
「お父さんとお母さんのところには戻らなくていいのよ、保奈美ちゃん。昂太ちゃんと一緒に帰りましょう」
「ほんと」

おばさんは私を黙って抱きしめた。それから私の顔をまたじっと見た。
唇はほとんど動いてなかったけど、おばさんの言ってることは聞こえた。

あの男が悪いんだ。
エリート意識が強くて外面はいいけど、会社での不満を家族に当り散らすような、最低の男。姉さんも―姉さんは私と違って勝気だったし、黙っちゃいなかった。子供が二人生まれても、あの二人の仲はあいかわらずだった。子供によくない、思い切って離婚すればいいのにと言ったけど、あの男から十分な慰謝料を貰わない限り子供を置いて出て行くなんて冗談じゃないって。
お葬式のあと警察に呼び出され―いったん帰宅した二人は、最後の大喧嘩をした。
工具箱と台所の引き出しから取り出したハンマーと包丁を使って。
母さんが少しづつボケが進んでいるのはわかっていた。けど単身者専用マンションでは子供は育てられない、引越しも引き取る手続きも簡単じゃない。こっちの準備が整うまでは、いままでもそうだったのだし、母さんにもうしばらく面倒を見てもらおうと思った。
それが、こんな。

栄子おばさんは立ち上がり、私の右手をとって黙って歩き出した。
「昂太、帰ろう」
弟に向かって言う。
小さい手がさしだした私の指に絡みついてきた。
どこからともなく、言い争う声が流れてきた。
まだあの二人は言い争っている。
どこかの窓の中。いつもいつも。
夕陽の影が長くなって川端のアスファルトの上に伸びている。
なんとなくちょっと不安になって、振り返る。
私の片手を引いたおばさんの大きな影、
私、
そして私の手につかまった昂太の、一番小さな影。
何もへんなとこはない。
弟はここにいる。
ずっとずっと。
赤みをおびた夕焼けで、おばさんの顔が光っている。泣いてるみたい。なにが悲しいんだろう。私はなるべく明るく言った。
「おばさん。昂太、チョコアイス食べたいって」





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