三枚目
         
 事務員は勤め始めて5年になる。今年高校生になる娘がいた。
 医薬品情報をネットで検索していたオーナーが振り向いた。
 「ああ、あの大学を卒業したばかりの薬剤師の娘か。まさかあのこが見るとは思わなかったな。 今度の娘はちょっと見そうな雰囲気があったが。」
 「どういうことですの?」
 「・・・きみは優秀な社員だ。これからもここでがんばってもらいたい。これからもまた、ああいう ことがあると思う―きみには教えとこう。他言は無用だよ」
 オーナーは古参の事務員に向き直った。
 「今から10年近く前になるかな。この近所に住んでいた女性だ。だんなは出張中で、小さな子 供がいた。子供は風邪をひいてて家で寝ていた。その日は小児科にかかって処方せんをもらっ たんだ。医師は夜中熱がでるかもしれないと、熱さまし(解熱剤)を処方していた。
 彼女は近所のこの薬局で薬をもらおうと思っていたんだ。しかしスーパーに寄ったりして忘れて しまい、家まで帰ってしまった。」
 「お詳しいんですのね。」
 「遺書に書いてあったからね。」
 「・・・!?」
「子供を寝かしつけたあと気がついて、近所だしすぐ行こうといったんは思ったらしい。・・・ところ がその時電話が鳴った。
 浮気していたんだな。相手からの呼び出しで、仕事で近くに来ているから会いたいと言われ て、子供も処方せんもほったらかしにして、待ち合わせの場所に飛んでいった。」
 「まあ、ひどい。」
 「よほど、かつえていたんだろうな。」
 男特有のイヤないい方に、事務員は内心で眉をひそめた。
 「帰ったのは夕方おそく、めんどうになって明日もらうことにしたようだ。ところが夜中過ぎ、子供 が急に高い熱を出した。
 熱さましのひとつでもあれば、と悔やんだが、自分が男との情事のほうを優先したんだからな。 主治医を電話でたたきおこすなり救急車を呼ぶほどのことはあるまいと、朝になるのを待って病 院に連れて行った。
 しかし子供の病気は急変し、亡くなった。
 「お気の毒に・・・」
 「せめて、あの時、熱さましがあったら、子供は死ななくてすんだかもしれない―その主婦は悩 んだすえ、自殺した。右手には処方せんをしっかり握り締めていたそうだ。遺書には自殺の動機 が克明に書かれていたし、ご近所だから顔みしりだった。」
事務員は声を上げた。
 「ま、まさか、その女性が・・・」
 「実際熱さましがあったとしても、同じ結果になったかもしれない。しかし、本人は、そう思い込ん だんだ。熱さましがあったなら子供は助かった、と。
 その思いだけが死ぬ直前凝り固まっていたに違いない。だから・・・・・」
 オーナーは、言葉をいったん切った。
 「彼女は今でも処方せんをもって、この薬局にくるんだ。」

 しばらく薬局内を沈黙が支配した。小さく流しているラジオのFMの時報音がやけに大きく響い た。
 「この前の娘は、じゃあ、その女性の幽霊をみたんですね。」
 「ああ。」
 「よく・・・でるのかしら。私はいままで気配すら、感じたことがありませんが。」
 さすがに夜となると、待合室のガラスのむこうは暗い。あまり言い気持ちのものではない。
 「大丈夫だよ。きみは。まじめな主婦だから。
 あの霊が見えるのは、不倫している女性に限られるんだ。そもそも不倫が原因で子供を死なせ たと思っている霊だからな。同じことをしている人間に波長があってしまうんだろう。」
 「主婦が亡くなって少しした頃―事務を手伝っていた前の妻が急に、顔を知っていたその主婦 の幽霊が出たって大騒ぎしてね。こっちはなにも見えないし、大ゲンカになってしまったよ。」
 「・・・・・・・」
 オーナーは離婚後再婚せず、子供を引き取って暮らしているはずだった。
 「そのうち、もう一人、見えたって騒いだ。その女性は(本人はうまく隠しているつもりだったらし いが)医者と不倫しているので有名だった。妻も前々から思い当たるふしがあったんでね。ぴん ときたよ。」
 「どうして・・・」
 事務員は当然の疑問を口にした。
 「そんな怖い幽霊が出るのをご承知で、いままでほっておかれたんですの?社員が何人も辞め たというのに・・・。お払いをしてもらうとか、されなかったんですの?」
 「冗談じゃない。」
 カラカラとオーナーは笑った。
 「開局して数年間、私の経営努力にもかかわらずツキがなくて、なかなか思うようにいかなかっ た。ところがあの幽霊騒ぎのあと、近くに大きな病院ができて処方せんが急増したり、ラッキー なことが相次いだ。幽霊騒ぎのことなど忘れるくらい忙しくなったのさ。
 あの幽霊は、ここのマスコットなんだ。」
 絶句している事務員に、なによりも経営者である男はにこやかに言った。
 「新しい3番目の薬局を作る話が持ち上がっているんだが、あの幽霊も出たことだし、きっとうま く成立するだろう。あの幽霊にしてみたら、もしここが経営不振でつぶれたら、出てくるところが なくなってしまうわけだ。社員が多ければ、自分の存在を見てくれる人間にもことかかないしな。」

 本当に怖いのは、人間の欲かもしれない・・・・・


―戻る―