二枚め

 それは、ゆっくりと・・・ゆっくりと、這い上がろうとしていた。
なぜ、それがそこに現れたか、どうして自分にしか見えないのか、いったいそれはなんなのか。 右手につかんだものはどうみても処方せんにみえたが、むろん受け取ることなどできはしない。
 女の目は、彼女を凝視していた。濁った、闇の色。なによりも恐ろしいのは、その目だった。憎 悪とも哀願とも言いがたい、生者が持ち得ない蠢く感情のかたまり。
 永遠と思えた時間のあと、ようやく悲鳴をあげる余裕が体にできた直前、重なった声が響い た。
「いらっしゃいませ!」
 処方せんを持った、今度は明らかに生きている人間が入ってきた。常連の患者である。唖然 としている中、初老の紳士はカウンターに近づき、しがみついてるあやかしと・・・重なった。
 それは少しの間、紺色の背広と二重になって悪夢のコラージュを呈していたが、次の瞬間、 ふっと消滅した。
「なにしているの!?」
 強い叱責のこもった声が彼女を正気に戻した。あわてて処方内容を入力しようとしたが、指が ふるえて3回ミスした。

 亡霊というには、あまりになまなましかった。とくに覚えがあるほどのいわゆる霊能力者ではな い。化けて出てこられるくらい恨まれた覚えも、ない。
 彼の妻の生霊の線も考えたが、ちょっと顔を知っていた・・・あれは違う。
 薬局は明るい。白くて、清潔だ。まっ昼間、どうしてあんなものが出現できるというのだ?
 死んだ女の“患者”は半月後また現れた。なんと書いてあるのか近づいて確認などできない 処方せんをもって。紙は蛆をつぶしてひきのばしたようないやな色をしていた。そして赤い髪の 亡霊は、彼女だけをねっとりとみつめるのだった。
「あ、あれが・・・・見えません?!! いるんです、そこに!そのカウンターに!!」
 彼女に白衣をつかまれた(年はひとつ下だった)女の薬剤師は、まるで彼女自身が亡霊でも あるかのようにぎょっとした。
「つ・・つかれているんじゃないの・・・今日はもう、帰ったら?」
 ほかの人間の反応も同じようなものだった。オーナーはさぐるような、冷ややかな目つきで見 ていた。
 友人の反応も言葉こそいくぶんやさしかったけれど、似たようなものだった。不倫の恋をしてい ることを察している友人は、そのために精神状態が不安定になっているからだといった。
 仕事のほうも、いつあの女があらわれるのではないかと気が気ではなく、ミスが相次いだ。お 払いをうけにゆき、霊験あらたかなるお守りやタリスマンを山のように買い、身につけた。職場 のほうもお払いしてもらいたかったが、ますますおかしくなったと思われそうなので断念した。
 彼には、話せなかった。気がへんになったと思われるだろう。怖いから昼も夜もずっとそばに いて、といいたかったのだけど。
彼の腕に抱かれているときですら、完全にすべてを忘れることができなくなってきた。ベッドの すそが怖い。あの女が、いまにもはいあがってきそうな気がした。彼を求める度合いは激しく なった。男は愛人の変化に気がついていたが、気が付かぬふりをしていた。自分に都合の悪い ことが原因だと困るので。
 お払いの効果はなかった。

 三度目、彼女はおとなしくしていなかった。いきなり絶叫し、サンダルのまま、薬局の裏口から 飛び出した。
 退職願はその日のうちに受理された。
 恐怖と不安から、タブーとされている時間帯に彼の会社に電話をかけ、むりやり呼び出して抱 いて、とせがんだ。男の態度はその日を境に露骨に硬化していき、ほどなく破局を迎えた。
 彼女は郷里に戻った。


「ほんとにまじめそうで、仕事のよくできる娘だったのに。急におかしくなってしまいましたね。女 の亡霊が見えるとか言ってたけど・・・・・」
 遅い時間帯。薬局には残務処理のため、古参の事務員とオーナーの薬剤師の2人だけだ。事 務員の顔がふと曇った。
「でも、何年か前も誰か同じようなことを言っていませんでした?」


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