一枚目
その薬局に勤め始めたのは、なによりもまず、愛人に会える時間をつくる口実がほしかったからだった。
「あそこは、はやっているよ。」
彼女が新しい勤め先を告げた時、8歳年上の彼は、一番にそう言った。
不況にもびくともしない一流企業のやり手社員であり、女がけっしてほっておかない、いい男・・・唯一の欠点は、
専務の娘を妻に持つ二児の父親であることだけだ。
「以前風邪をひいて何回か医者にかかったことがある。処方せん、っていうのかな、紙をもってあの薬局に
行ったんだよ。活気があって忙しそうだった。」
「私は窓口で処方せんの内容をコンピューターに打ちこむのがおもな仕事らしいの。
残業はほとんどないらしいし給料も思っていたよりずっといいし、
これであなたとも会いやすくなるわ。」
前の職場では不規則な残業が多く、しばしば男と会うチャンスをのがしていた。
かといって、仕事についていないと郷里の親が、また戻って来いとうるさいだろう。
27歳。あと少ししたら、一見甘んじた立場で満足しているようにみえる彼女でも、
無理を承知で男にあることをせがむようになるだろうが・・・それはもう少しだけ先の話である。
彼女はブラウスのボタンを思わせぶりにゆっくりと彼の前ではずしてみせた。
時間には、それほど余裕はない。
ここは、ホテルのなか。
することの選択肢はそれほどない。
勤め始めは、万事順調に思えた。
たしかに、その薬局はたいそうはやっているようだった。
薬剤師が4人に、彼女を含めて、事務が2人。前からいる古参の女性の事務員は
薬の注文や経理などを一手にひきうけており、とうぶんすることは、調剤室で薬剤師の指示をうけながら、
処方せんの内容をコンピューターに打ちこむことと、幾つかの日常業務処理であった。
店のオーナーでもある40代半ばの薬剤師はひとあたりもよく、やさしそうに
みえたが、商才にたけ、やり手なことでは有名らしい。(本人がいないとき、それとなく、周囲の雑談から聞き出した。)
忙しいが、決まりごとにしたがって、指示どおり、正確に打ちこむなり、書き込むなりすればいい。
もともとそういう作業がきらいでない彼女は仕事に慣れるのも早かった。
彼とは、ケータイをフルにいかして、うまく逢瀬の時間をつくった。
なにもかも、順調にゆくようにみえた。
あの患者が、姿をあらわすまでは・・・・・・
医薬分業がおこなわれている場合、患者は診察を受けた際にその場で薬をもらう代わりに、
薬の処方が書かれている処方せんをもらい、その処方せんを持って街の保険薬局で薬をもらう。
薬はどこでもらってもいいわけだが実際は病院の近く、自宅(勤務先)の近く、かかりつけの薬局など、
利便にあわせて選ぶことが多い。
彼女の席は窓口のそばにあり、処方せんを彼女自身が受け取ることが多かった。
そして、処方せんの内容をコンピューターに入力する。
薬の調剤、監査、投薬は薬剤師の仕事である。彼女は待合室からよく見える位置にいるため、
オーナーから接客態度にはきびしく言われていた。
その日は午後の昼下がり、待合室には誰も居なかった・・・そう、思っていた。
新米の彼女は、ヒマな時間を他の従業員とのおしゃべりに費やせず、座っていた。
「・・・・?」
気配がした。振り向くと、カウンターの端からなにかが見えた。
自動ドアの開く音は聞こえなかったのだが、患者だと思った。立ち上がりかけた彼女の目は凍りついた。
なにかが、右手に紙のようなものをつかんだなにかが、左手でカウンターの端をつかんで、這い上がろうとしていた。
赤い髪。おんなの顔。
ただ、どうしてもそれは、生きた人間の顔には見えなかった。
死体よりももっと、おぞましかった・・・なぜなら、死体に表情はないだろうから。
腐敗しかけた肉のような肌色に、見開かれた目。目と目が合った。
悲鳴をあげようとするが、声すら出ない。
そのとき、古参の事務員が彼女に声をかけてきた。
「どうかしたの?」
「あ・・・・・。」
震える手で指さす。その方角を古参の事務員は見た。そして言った。
「いったい、どうしたの?」
そのとき彼女は、今自分が見ているものが、ここに居る他の誰にも見えていないのを知った。
しかし、それは居た。