「智佳子、来てたのか。」
「あ、晴信。」
 ジーンズに綿シャツ。地味な配色。麦藁帽が転がっている。かなり日焼けした顔。もうメラニン残留を気にするほど未来は残っていない。
「一人で来たのか?危ないぞ。佐藤のじーさんにでも連れてきてもらえ。」
 いくら過疎地帯でも、地味作りにしてはいても、20過ぎの女の子が一人で出歩くのは危険を伴う。男はいつまでたっても性欲だけはあるし(使い物になるかどうかはさておき)、これに関しては顔見知りだからといって安心できない。
「佐藤のじーちゃんは、お母さんについててもらってる。今ちょっと体調悪いんだけど、病院も通いにくくなったし。でも無理しなければ大丈夫だって。」
 お土産、と横に置いたリュックから取り出したのは、小ぶりのスイカだった。
 家の前の小川というか溝にスイカを浸し、冷えるまでの間、おれは智佳子と並んで縁側に座った。
「晴信が戻ってきてくれて、ほんとにうれしいわ。」
 智佳子とおれは小中高と同じ学校だった。山村は住居が広範囲に点在するため、幼馴染といっても家は峠ひとつ離れている。
「待ったのか?悪いね、出ていて。」
「あんまり。急ぐこともないしね。」
「県道から来たのか?」
「あっちから来たから、一人でも大丈夫。」
 県道に通じる小道から分岐したもう一つの小道を指差す。
 舗装のないあぜ道、土の道は、細い上に雨でぬかるむと悲惨だが、車が通れない、もしくは超低速でないと通りにくいことが、歩行者にとっては安全となる。ガソリンが手に入りにくくなってからは、手持ちのガソリンがあっても節約のため、みんな日常は二本の足を使いはじめた。それにともない、かっての―ほんの半世紀前までの主幹道路―狭い旧道や農業・林道用の小道が復活した。
 草で覆われ夏は草刈しないと道が見えない山道に、人の踏み固めた跡が残るようになった。車社会になってから作られた新道は、山越えにしても、山肌を削り山腹を上るように作られているから、歩くには向いてない道も少なくない。遮蔽物がないので暑い夏はきつい。山道は、山の谷を縫うように走るから、大雨の時はまずいが、木陰が多く、沢や小川で喉を潤しながらでも歩けた。
 一番の理由は、死ぬ前に手軽に人殺しをしておきたいのか、各地でひき逃げ事件が続発したため、歩行者も用心せざるをえなくなったことだった。外国の大平原の一本道と違って、道路周囲に起伏の多い日本の山間部の狭い道は、道から歩行者が出てしまえば、もう車では追って来れない。
 道は本来の道として甦りつつあった。残りあとわずかな輝きではあっても。
「毎日、どうしてる?」
 聞かれて、おれは茄子の鮮やかな青紫の表面をつついた。
「適当にやってるよ。暇だから手伝いしたりして。智佳子のとこも、男手が要るようなことがあったら手伝うよ。」
 智佳子の家は父親が亡くなり、それ以来病気がちになった母親と二人暮らしだ。何軒か家がかたまっている集落だから、出かける時の家の守くらいは近所に頼める。
「じゃ、今度頼むかも。」
「おう。」
「晴信のとこも分けてもらったのね。」
 コココ、とうろつく鶏を見て笑った。
 智佳子はおれよりずっと頭もよかったし、夢も持っていた。
 将来、服飾デザイン関係の仕事をしたい、そのために都会の大学に行きたいのだと、中学の頃から言っていた。
 だが高校の時父親が脳梗塞で倒れ長く入院を続けたあと亡くなり、気落ちした母親は病がちになり、おれと同じ一人っ子だった智佳子は、経済的にも心情的にも大学進学をあきらめるしかなくなった。
 町役場に就職したが、その後も夢をあきらめず、独学で勉強を続けていた。去年夏休みの帰省中、用あって役場に行って再会し、昼休憩の時少し話したが、取り合えず今は働いてお金をため、母親の様子が落ち着いたら、何年かかってもいいから、いつかは絶対都会に行くよ、その時は晴信のとこにも遊びに行くね、と元気よく話していた。

 スイカは包丁で切ると、色はいまいちだがたっぷり甘かった。だが多量にタネが存在したので、しばらく無言で食べてはタネを飛ばす作業に没頭した。投げた皮を鶏がつついている。
「ああうまかった。ご馳走様。」
 そのあとはしばらく、二人でとりとめないない話をしていた。学校時代の思い出話が多かったが、クラスメイトが今どうしているのかは、二人ともあえて話題にしなかった。
 そろそろ帰る、との声に、おれはもらい物の茄子を幾つかリュックに押し込んだ。
「お土産だよ。」
 智佳子は手に取った麦藁帽をかぶらず胸に持っている、なにかもの言いたげなまなざし。
「こんなこと言ったら、怒るだろうけど・・・」
 帽子を手にしたまま縁側を降りる。二、三歩歩いて、振り返る。
「晴信怒るだろうけど、もう時間もあまりないようだし、言っちゃうね。」
 笑顔。でも目がうるんでいる。
「わたし、ホッとしてるの。」
「え?」
 智佳子はくるっと体の向きを変え、だいぶ傾いた陽と反対の山の頂に目線をずらした。空は青い。小惑星が激突したら、あの青い空もなくなるんだろうか。
「去年会った時は、ああ言ったけど、本音はすごく苦しかったの。」
 おれの顔を見ずに、智佳子は話始めた。
「お父さんが倒れてから・・・なんとかしようとずっとずっとがんばって来たけど、どうにもならなかった。それからも月日はどんどん過ぎていって、一人取り残された感じで。」
「都会に行きたかった。夢を叶えたかった。・・・せめて、夢に挑戦する切符だけでも欲しかった。」
「すっかり弱って気落ちしたお母さんを一人おいて出て行くことは、自分はできない。都会で一人暮らしできるのに必要なお金も、なかなかすぐには貯まらない。ひどく勝手に焦って、そんな時はお母さんが無性に憎くなったりして、そんな自分が嫌だった。
 このまま―
 このままズルズル年だけ取って、結局夢あきらめて妥協して、いいかげんな結婚なんかして、自分をごまかしてしまうのかな、って―怖かった。」
「嫌だけど、もうその道しか残ってないんじゃないかと思いはじめてた。まだ始まったばかりのはずなのに。」
「でももう、そのことで悩む必要はなくなった。」
 彼女の顔がこちらを向く。
「晴信も言ってたけど、私の憧れていた都会は、もうなくなってしまったんでしょ?」
 葛藤と絶望の果てに得た微笑がそこにあった。
「むなしい希望を抱きつつ、ずっと待っている必要もなくなった。私はここに留まっていて正しかったんだと思えるようになった。それがわかって、うれしかった。
・・・ごめんなさい。」

 おれは何にも言えなかった。だが怒ってなんかないよ、と示すため、智佳子に向けて首を振った。
 智佳子がこれだけ渇望していた都会に、おれは出た。
 親元を合法的に飛び出す手段として大学進学を選んだだけで、とくに将来自分が何をしたいという展望はなかった。
 そして、何を得た?
 何もせず、何も得ず、何も破壊さえもせずに、最後には都会から押し出された。
 隣で小さな声が聞こえた。
「わたし、今、とても幸せなの。」

 おれは彼女を家まで送り届け、そのまま帰路についた。
 智佳子とは手もふれず、言葉をかわしただけ。
 あのあと彼女を抱くべきだったのかもしれない。彼女もそれを望む・・・とまではいかなくても拒絶だけはしなかったと思う。
 だけどそんな気分ではなかった。
 まだもう一度くらいは会う時間は充分あるはずだった。
 もしなくなったとしても―おれは今日のひとときを悔やまない。

 陽の影が長くなった。夏ももう終わりが始まっている。
 蝉の声はまだやかましく、油蝉の合唱、どこかでつくつくほうしの後を引く声、そして沢を上から覆った木立の中からは、蜩の静かな音が山の夕暮れを告げている。
 山道を歩く。
 ふいに、もう未来はないのに、自分は今生きているのだと初めて感じた。

 終末はやってくる。
 そしておれは、この、つまらない、たいくつな、何の楽しみもない―
 ここで、終末を待つ。
 智佳子の言うとおり、それが幸せだと思う。



―夢見の井戸に戻る―