歩いてゆく


 気がついたら、河の土手道を歩いていた。
 河幅は広く、水は濁っていた。上流で雨が降った時のようだ。
 ここは―どこ?
 わたしは歩きながら、ふと思った。
 夢を見ているのだろうか。
 自分のことを考えてみようとした。
 本城麻奈美。名前はすぐ出てきた。そして、その名前に付随するエピソードも。
 夢?本人がこんなにはっきりした意識をもってても、見続けていられるものなのかしら。
 それでも、ここは夢の中に違いなかった。
 薄曇の空のした。河の左右に拡がるのは枯葉色の草が生い茂る一面の荒れ地だった。
 見渡す限り、人家一つない。こんな風景が現実のものであるわけないのだ。

 土手道を歩いているのは、わたし一人ではなかった。
 男の人が少し先の方を歩いている。
 振り向くと、中学生くらいの男の子の姿が見える。
 河はゆるやかに蛇行して流れている。
 よく見ると、河土手の道には、まばらではあったが点々と人影が続いていた。
   ずっと。
 でも、河をはさんだ向かいの土手道に人気はなかった。
 なんだか、ヘンな夢みちゃっているんだなあ―。
 私はとにかく、今が夢の中だと思い込むことにした。そうでも考えなければ説明がつかなかったからだ。
 こんな変な夢みるなんて、昨日いったい私ったら何して・・・。
 そう思ったとたん、私は思いだした。
 昨日の夜、いつものように友達と電話した後、私はアパートの5階から飛び降りた。

 すっかり忘れてた。
 彼に浮気され、しかも相手は自分の親友。友達に愚痴ってた時、そのことは、もうずいぶん前からみんな知ってて、 私ひとりだけ知らされてなかったことがわかった。
 電話を切ったあと、なんだかすべてがものすごくイヤになって・・・
 とすると。
 ここは?

 まさか、ここは・・・。
 わたし、死んじゃったの??

 あらためて自分の格好を見た。
 違う、この服じゃない。やだ、わたしったらピンクのストライプの、あのパジャマ着て飛び降りたんだ。 でも今着てるのは・・・。
 わたしはどきっとした。これ、修次との最初のデートに着ていって、可愛いっていわれたあの服よ。
 ファミレスでミートソースがかかってシミになり、取れなくて泣く泣く捨てたはずの服。
 この世にもう無いはずの服を着て、ありえないところをとぼとぼ歩いているんだ。
 誰かに聞けばいい。人がいるんだから。
 わたしは自分の少し前を歩いているおじさんらしい男の人に追いつこうと走り出した。 なんだか水の中を走っているみたいで体が重かったけど、がんばった。 やっぱり、夢の中なのかな。距離感がなくて、走っているのになかなか追いつけない。
 「ちょっと〜、すいませ〜ん。」
 思わず叫んでしまった。
 男の人は振り返った。くたびれた背広姿、疲れた顔・・・驚愕の表情。
 「来るなー!」
 わたしは戸惑った。おじさんは急に走り出した。だけど、走り方を忘れてしまったように足がもつれ、 派手に転んだ。
 「大丈夫ですか。」
 おじさんは、立ち上がろうとしたけど、急に座り込んだ。
 「すまない・・・待ち望んでいたことなのに、ついその時が来ると取り乱してしまって。 気にしないでくれ。」
 「ここはいったいどこ・・・」
 ようやくおじさんに追いつき、話しかけたわたしは悲鳴をあげた。
 おじさんの体が急に薄れていく。フェイド・アウト。消えていく。
 「ありがとう・・・。」
 かすかに声がして、おじさんの姿は完全に消えてしまった。
 いったいどうなっているの。
 わたしの後ろにいた中学生くらいの男の子。こんどはあの子に聞こう。
 走るのはなんだかキツイ。ここで待っていれば、向こうのほうが追いつくだろう。
 わたしはもう一度あたりを見回した。あいかわらず対岸に人影は無く、 こちら側にはまばらに歩きつづける人の姿が点在している。
 男の子の姿はなかなか近くならない。わたしは手をつねってみる。痛い。でも、なんとなく 痛みが鈍いような気がする。
 さっきのおじさんは、ここがどこかいろいろ知ってたみたいだった。なのに消えちゃった。どこに 行ったのかしら・・・。わたしが5階から飛び降りたのは事実だし、あの高さから落ちて無事じゃすまないのも 事実。死んでないなら病院でねているはずで―。
 臨死体験。もしわたしがまだ死んでいないのだとしたら・・・そして、ここが、そういうところだとしたら。
 あのおじさんは、どこに行ったの?生き返ったの?生き返るならどうしてあんなにおびえていたの??
 「追い越すよ、いいの?」
 急に声がして、わたしは飛び上がった。すぐ後ろにあの中学生が来ていた。 近くで見ると、ランドセルを背負っていてもおかしくないくらい、あどけない顔をしていた。
 「追い越すって―どういうこと?」
 「おねえさん、さっき追い越していたじゃないか。」
 男の子の声は声変わり前で、まだキーが高かった。
 「ここはどこなの、君知ってるんでしょ。教えてよ。」
 わたしは普通に話そうとしたけど、声がふるえた。男の子はうしろを気にしている。かなり向こうから 女のひとが歩いてくる。
 「ぼくはまだ、消えたくないんだ・・・おねえさん、とにかく歩いて。ぼくの話を聞きながら。」
 わけがわからないまま、わたしは歩き出した。男の子はわたしのすぐ後ろをついてくる。 あんまりいい気持ちじゃなかったけど、とにかくそうした。
 「たいていここに来たら、なんとなくわかちゃうらしいんだ。ぼくもそうだった。 でも、おねえさんのように来てもわからないひともいるみたいだね。
 そういう人が自分の後ろに来るとまずいんだ。話し掛けようとして、さっきのおじさんのようになっちゃう。」
 「あのひと、どうして消えたの?どこにいったの?」
 「おねえさん、自殺したんでしょ。」
 わたしは振り返った。男の子の表情は変わらない。
 「ぼくもそう。この河岸を歩いている人みんな、そうなんだよ。・・・おねえさん、ちゃんと歩いて!
  ぼくに追い越されると、おねえちゃん、消えちゃうよ。そうされたいならそうするけど・・・。」
 「追い越すと・・・消えるって??」
 「なぜかはわかんないけど、そういうことになってるんだ。ぼく達、もう肉体的には死んでいるんだよ。
 心だけが生きているんだ。」

 「死んでる・・・?だってわたしは、ほら・・・。」
 言ってはみたものの、なんとなく自信がなかった。さっきから頭はしっかりさえているのに、 体に感じる違和感とずれ。
 「ぼくは、学校の宿題を忘れたのをしかられて、ついキレちゃってさ、首つっちゃた。 こんなことになるとわかってたら、バットでママを殴り殺しておけばよかったと思うよ。」
 「・・・・。」
 「以前ぼくの前を歩いていたお兄ちゃんが、歩きながら自分の考えをいろいろ話してくれたんだ。
そのおにいちゃんは、ガールフレンドに振られて、お酒と睡眠薬をありったけ飲んだんだって。 別に死ぬ気じゃなかったらしいんだけど、それを飲んだら死んじゃいそうだってわかってて飲んだんだ。」
 「・・・そのおにいちゃんはどうなったの?」
 「この河の意味しているところをなんだかいろいろ推測していたみたいだけど、 ぼくにはよくわからなかった。とにかくここからの脱出を試みてみるって、 この河に飛び込んだんだよ。」
 「どう・・・なったの。」
 「失敗。」
 河の水はにごっていて、けっこう流れも速く、よく飛び込む気になれたと思う。
 「追い越されたのと、同じみたい。飛び込んだとたん、溶けるように消えちゃった。 だから、この土手を降りて草むらにはいっても、きっと消えちゃうんだろうね。」
 さっきから―というより、わたしがここに来て?から、もうずいぶん歩いたような気がするけど、 あたりの景色はいっこうにかわらない。河はゆるやかに蛇行しながら流れ、河岸の道は歩く人をのせて ずっと続いている。
 「おにいさんが言ってた。二人とも、死のう!と固く決意して死んだんじゃない。 現実にハラを立てて、十分に死の重さを意識しないまま死んじゃったんだ。
 ここは、そんな人のいく・・・地獄なんだって。」

 わたしはしばらく歩きつづけた。
 確かに、ここは現実の世界ではないのだろう。ずっと歩いているのに、いっこうに足が痛くならない。 肉体的に疲れない。おなかもすかない。
 男の子とは、しばらく話しつづけた。いつ死んだの?との質問に答えるのは少し嫌がったけど。
 彼は三年前に死んでいた。読みかけのマンガやアニメ、ゲームの続きを聞かれ、知ってる限り答えてあげた。
 「もう、そんなになるのかなあ。ほんのこの前だったような気がするけど。」
 「その間、ずっと歩きつづけているの??」
 「うん。別に疲れないし、眠くならないし。普通に歩いていればまず追いつかれないからね。」
 三年も。
 「これから・・・どうするの?」
 思わず、バカな質問をしてしまった。選択肢なんて無いのに。
 「もう少し、歩きつづけるつもりだよ。消えようと思ったら、いつでもできるもんね。」
 「この世界から消えたら―どこに行くのかしら。天国?」
 ここが地獄なら、次にいくとこは天国っぽい気がするけど。甘いかな。
 「おにいさんが言った。地獄ってのは、あくまでたとえ話。ほんとは人間は死んだら無になるのが 正しいんだって。なのに、ぼくたちは死を意識せずに死を選んだ。とても中途半端な存在のまま 死んじゃったんで、こうして気持ちの整理がつくまでここにいるんだって。」
 男の子の話し方はとても大人びていた。姿はたぶん死んだときのままなんだろうけど、それから三年間 たっている。心は少しづつ大人になっているのだろう。ひとりで。
 わたしは考えた。彼と違ってついさっきここに来たばかり。そんなに悟れない。
 知らずに追い越してしまったおじさんのことを考えた。最初は怖がったけど、観念して座り込んだ。 消えたかったけど、なかなか自分からそうする勇気が出なかったのだろうか。
 どれくらいあの人は歩いていたのだろう。
 ひとが、自分の存在が消えるということを心から認識した上で自ら消滅する気になるまでに、 いったいどれくらいの年月がかかるのだろう。
 確かにあの子の言うとおり、体は疲れないし頭ははっきりしている。
 考える時間は充分ある。ひょっとしたら永遠に。
 「ここから脱出して、もとの世界に戻った人っているのかしら。」
 「どうかな。だって、本当の体はとうになくなっているんだもの。戻ったって、幽霊にしか なれないかも。」
 「そうよね・・・。」
 わたしが死んだからどれくらいたったのだろう。ここは時間の感覚があまりないのかもしれない。 うんと昔からこの世界があるのなら、レトロな服着て歩いている人がいてもよさそうなものだけど。
 目を凝らしてみたが、歩く人の間隔はかなりあって、よくわからない。

 わたし、どうして死んじゃったんだろうな。確かにあの時は、ほんと悲しくて、なにもかもがいやで・・・ でも、死ぬほどのことはなかったのかもしれない。
 尚子、この頃なんか元気なかったけど、わたしの前でそ知らぬ顔しているの、辛かったんだろうな。 修次はちょっと許せないけどね。化けて出れるものなら、驚かしてやりたいよ。あんたのせいで こうなったんだってね。
 河を見る。誰もいない対岸を見る。
 なんとなくあちら側が、現世というか、わたしが生きていた世界のような気がしてきた。 こっちの目に見えないだけで、しっかり“生きている”人たちが、大勢歩いてるかもしれないんだ。
 日本も外国にも、生と死の世界が河をはさんでわかれているって話、聞いたことがある。
 “おにいさん”も、きっとそう思ったから河を渡ろうと思ったんだろうな。 そううまくはいかなかった。でもチャレンジするだけでも前向きだよね。
 今そのまま戻れたとしても―現実は変わらないんだ。親友と恋人が出来ちゃった事実。 わたしが自分で考えて、なんとかするしかないんだ。
 ばかなわたし。もう、遅いよね。

 その時、なにか強い衝撃に突き飛ばされ、わたしは河に落ちた。


 気がつくと、わたしは病室にいた。
 半年近く、脳死一歩手前の状態で昏睡状態にあったらしい。
 体の衰弱を懸念した医師が、ダメもとと試みた最新の脳神経刺激療法が奇跡的に効いたんだそうだ。
 当分ベッドから起きられそうもないけど、両親はワアワア泣き、友達も大勢見舞いに来てくれた。 尚子の姿もあった。電話をかけた直後に飛び降りたから、美紀の口から自殺の原因は知れ渡ってるはずだった。
 わたしは何も言わなかった。尚子も何も言わなかったけど、両親以上に泣いていた。修次は来なかったけど、 もうどうでもよかった。
   「あんなに長く昏睡状態にあったのに、意識は非常にはっきりしている。記憶障害もみられない。 おとろえた筋肉の回復にはしばらくかかると思いますが、じき退院できますよ。」
 担当医師は診察したあとで、満足そうに言った。
 ずっと歩きながら考えていたんだもの。おそらくこの世界で考えるよりも、はるかにたくさんのことを。
 わたしがあの世界の約束事の認識がなかったのは、わたしがまだ完全に死んでいなかったからなのだろう。
 あの男の子は、今も河土手を歩いているのだろうか。いろいろ話したけど、お墓を尋ねていけるほどの 具体的な住所はきいてなかった。それにお参りしたって、あの子にはわからないのだし。いつか、あの子も 自分で答えをだすだろう。

 わたしは一ヵ月後退院し、元からあった生活に戻った。
 尚子とは今も親友だ。修次とは私が自殺をはかった直後別れたらしい。彼のことはもう考えないようにしている。
 あの河のほとりの光景は、今も鮮明に心に焼き付いている。
 河はこれからも流れ、河土手に人の途絶えることはないだろう。
 でもわたしは、もうあの道は歩かない。
 この世界の自分の道を、しっかり歩いてゆく。
 


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